お菓子への思い〜三代目社長 宮沢陽一
仲間と共に芸術に親しんだ青春時代の経験が原点
初代、宮沢菊松が宮沢の沢と菊松の菊を取り、屋号を沢菊とし昭和5年に創業しました。
小鳥と短歌の好きな祖父で、めじろ、うぐいす、カナリヤなどの小鳥のさえずりに囲まれながら、穏やかに仕事し、人生を終えたと思っています。
私は、小中学校を通じ興味の対象はもっぱら、映画や音楽や絵で、小学校の頃から映画館に入り浸り、また高校時には仲間たちとエレキギターのバンドを作りビートルズに熱中し、さらに余韻を楽しむように、映画の中のシーンを思い出しながら絵を描く事がとても好きでした。
当然ながら学業は疎かでしたが、今振り返ると、映画から様々な事を学び、音楽仲間たちと充実した時を過ごし、そんな青春を謳歌した友人たちと接する中で、苦しい時、嬉しい時、共に悩み、喜び、教えられ、育てられた事が、後になって私の人間関係に対する考え方の原点になったような気がします。
他にはない全くオリジナルなお菓子を作りたい−
「ぶすのこぶ」誕生
高校卒業後、盛岡での5年半の修行生活の間「将来、家業の菓子屋を継ぐ時には、他にはない全くオリジナルな菓子を作りたい」と漠然とながら考え始めるようになり、修行を終え岩手県久慈市に戻って間もない昭和46年、久慈渓流で目にした1枚の看板が、日を追う毎に鮮やかなイメージとなって広がり、その謎めいたユーモラスな響きは、私の心の中に絶対的なものとなって残りました。それが「ぶすのこぶ」でした。
調べてみると「ぶすのこぶ」はアイヌ語の地名で、他にも久慈地方には、各地にアイヌ語の地名が分散しており、久慈という地名そのものがアイヌ語でくびれた地形を意味するものであることを知りました。
お菓子に物語を吹き込む事で皆さまに新たな出会いと
楽しみを提供したい
修行時代をふくめ、私が菓子作りに関わり始め40年以上の歳月を数える事に、私は喜びと同時に驚きを禁じ得ません。今もって、私の性格が商売に向くのかどうか自問する事があり、長い間私を支え応援してくれた多くの人たちに、心から感謝の気持ちでいっぱいです。人との出会いが出会いを呼び、人生のフィールドを広げてくれ、人生の節々で教示を受け、激励された事が、時を経て知恵となって私の身についたような気がします。
今後とも、一つ一つのお菓子にそれぞれの物語を吹き込む事で、皆様に新たな出会いと楽しみを提供できるなら、それは私の夢の結実であり、これ以上の幸せはありません。